エルサは自立した女性だから恋人は不要…?

海外での、「エルサにガールフレンドを!」運動に対し、「エルサの救済に恋愛は要らない、恋愛無しで救われたのだからたとえ同性であろうと恋人を作るのはおかしい」的な反論を多く見かけます。何かそれも違和感あるんですけれど。『Frozen』という一つの映画のストーリーの中で、恋愛なしで救われたからといって、彼女は未来永劫誰とも恋愛してはいけないの?それも変じゃね?一人で自立した人間が同性と、あるいは異性と恋に落ちて結ばれる事の一体何がおかしいのだろう?
例えばノートルダムのカジモドだって、映画では失恋したけれど精神的には救われました。彼には続編で恋人ができました(男に都合が良すぎ、という批判もないではないですが)。恋愛の成就すなわち救済ではないけれど、そういうキャラクターに続編で恋人ができたって別にいいじゃないですか。エルサも同じだと思いますよ。
「エルサに恋人を作って!」という希望の表明を「恋愛がないと救われないキャラじゃないから」という理由で否定するのは、ちょっと論理に合ってない気がするんですよね。恋人がいなくても幸せな人間は恋人を求めちゃいけないの?みたいなー。
エルサはメリダみたいに政略結婚を勧められて嫌がるとか、一生独身でいいわ跡継ぎはアナの子供に任せるとか、そういうエピソードがあった訳じゃないですよね…?なのになんでエルサが「恋愛は不要、独り身でいたい」キャラだという事にされているのかよく分からないのですが。単にあの映画の短いストーリーの中では出て来なかっただけで、今後の人生の中でエルサが誰かと恋をして結ばれても別にいいと思うんですけれど。
一人でも立っていける人間が、誰かと恋をして結ばれてはいけないんでしょうか。『恋愛至上主義』を異常にに向く人達が怖い。物語が恋愛の成就で終わったというだけで、人間として不完全みたいに言われるのには違和感あるんですけれど。ここの所の世の中の、恋愛フォビアとも言うべき傾向にはついていけません。
私個人の希望としては、エルサは次回作では男性と恋愛してほしいですね。単純に人口からの比率から言ったら異性愛者の可能性が一番高いのですから。まあ、でもそれは有り得ないんだろうな。下手にそういう方向で人気が出てしまっただけに(彼女自身は結婚なんて嫌だなどとひとことも言ってはいないのに!)独り身でいる事を強いられるエルサというキャラクターは不幸だと思いました。

ゴールデンカムイという漫画が気持ち悪い件

ゴールデンカムイ』という漫画が、アイヌ民族を正しく描いた作品として今話題らしい。「3月末に発表された『マンガ大賞2016』(実行委主催)の受賞で全国の漫画ファンの注目を集め」ている、らしい。
で、試し読みしてみたのですが。えーー、ごめんなさい、無理です。とてつもなく気持ち悪いです。
主人公が成人男性(どう少なく見積もっても二十歳は越えている。下手するともっとずっと上)で、ヒロインは12〜3歳って……。しかもこのヒロイン、顔立ちは大人っぽい感じの美少女なのでまだマシなんですが身長が低い。めっちゃ低い。主人公の腰の辺りくらいしかないんじゃないってくらいに小さい。小さすぎて7歳くらいに見える。本当に真性ロリって感じで見ていて気持ち悪い。
それでもこの二人でそういう関係になるとは限らないし…!と思いWikipediaを読んでみたらヒロインの祖母がヒロインを主人公の嫁にしたがってるとか、主人公に思いを寄せるセクシーな占い師にヒロインが嫉妬するとかの情報が出てきてやっぱ無理だと思いました。ヒロインの主人公への想いはあくまで憧れであって、同年代の少年キャラに本当の恋をしてそっちと上手くいくという展開がこの先あるのならば評価は変わるのですが、そうでないならばどうにも無理です、受け付けません。主人公には梅子という想い人がいるらしいのでそっちとくっついてくれないかなあとも思うのですが、梅子の存在は「主人公にその気はないけどロリに片想いされてやれやれだぜ」という設定にするための舞台装置に過ぎないのかな、やっぱり。Wikipediaを見る限りではヒロインと同世代の少年のメインキャラはいないようですし。
銀魂なんかも主人公が二十代後半(推定)の成人男性でヒロインが14歳の少女なんですが、ロリコン的な気持ち悪さはないんですよね(最近は別の意味での気持ち悪さは出てきましたが)。それは多分、十代の少年キャラがちゃんとメインにいるからだと思います。真っ当な作品はヒロインを主人公と歳の離れた少女にしても、ヒロインと同年代の少年キャラもちゃんと出すんですよね。主人公は一歩引いた所にいる大人であって、遥かに年下のヒロインと『対等』になったりはしない。
まあ実際、当時のアイヌ民族では歳の差婚が当たり前だったのかもしれませんが。でもやっぱり気持ち悪いです。アイヌ民族にしろ在日コリアンにしろ同性愛者にしろ、ある点で被差別者だからと言って別の差別をしないという訳ではないし、また差別しても許される訳ではないと思う。ロリコンアイヌ民族の文化だというのなら、そんな民族滅んでよし、滅ぶべき。インドのカースト制と同じだ。民族差別を問題視する側が女性差別には鈍感、って非常によくある話過ぎて本当に嫌になる。だから私はたとえ「アイヌ民族を正しく描いた作品」であっても、このようなロリコン漫画を肯定的に受け止める気には到底ありません。
まあねー…青年漫画にはこの手の、成人男性主人公と少女キャラで恋愛やそれを明らかに意図した作品は珍しくないんだと思いますよ。よくある話、よくある話。そういう作品の多くに対しては、心の底できめえとは思いながらも娯楽作品にいちいち目くじら立ててもしょうがないかとスルーできるのですが。ゴールデンカムイが気持ち悪いのは変にポリティカルコレクトな作品として持ち上げられているからです。単なる娯楽作なだけならいちいち怒ってません。偏りまくりなロリコン作品を『正しいもの』として持ち上げる世の流れが気持ち悪い。「明るく、おもしろいアイヌを描く」手段が、12、3歳の少女を成人男性主人公とどうこうさせる事なのか。もっと他の手法はなかったんですか。今の日本のサブカルチャーにおいて『少女』という表象だけが過剰に持て囃されるのを痛感しました。つくづく気持ち悪い。
ヒロインが少女なら、主人公も少年じゃいけなかったんですかね…。病気の母親の治療費を稼ぐために大金が欲しい少年とか、両親を亡くして幼い弟妹を養うために金を稼ぐ少年とか、そっちの方が少女キャラと『相棒』になるには自然だと思うんですが。少年と少女で描くアイヌの物語だったらなあ…そっちなら進撃の巨人みたいに一般受けして大ヒットしそうなのに勿体ない。(少女ヒロインと大人の主人公なら、グイン・サーガみたいに主人公と別に少年キャラを出して主人公は二人を守る保護者ポジションでも良かった。少年と少女を守るかっこいい兄貴分ポジションの主人公なら、好きになれそうなタイプのキャラなのにな…残念です)
青年漫画だから主人公が大人じゃなきゃいけないというのなら、そしてヒロインとの間に色恋沙汰を入れるなら、ヒロインも普通に成人女性でいいじゃないですか。「少女」だとしても、せめて十代後半ならまだ受け入れられた。ヒロインの年齢はせめて16歳前後じゃいけなかったんですかね……。12、3歳はちょっと、いくら何でも、おええぇ(しかもその年齢より更に小さく見える)。色々な事件の影響もあって、最近とみに成人男性と少女の組み合わせが苦手になっています。

保育園に落ちた日本死ねデモは日本版ホワイトフェミニズム

どうもブログを書く気力が沸きません。思い付いた事はTwitterに書いてしまって、それっきりの方が早いからですねー。

http://www.tvgroove.com/sm/news/article/ctg/1/nid/24240.html
『ホワイト・フェミニズム』という言葉があるらしい。『ホワイト・フェミニストとは、「女性差別を訴えるくせに白人を優遇し黒人やヒスパニック、アジア人など人種差別するフェミニスト」のこと。』だそうです。2015年夏にローワン・ブランチャードという13歳の米女優がそのホワイト・フェミニズムについて発言して話題となったらしいです。このローワン・ブランチャードさんの発言は素晴らしいですね。私は世間で持ち上げられている十代の女の子の発言にはあまり賛同できない場合が多いのですが、この件に関しては素直に良い発言だと思いました。すばらしい。
で、思ったのですが。昨今日本で話題の『保育園落ちた日本死ね』とそれに端を発するハッシュタグやらデモはまさに日本版ホワイトフェミニズムだなーと。この場合の保育園に子供を押し付けたい母親達はアメリカのエリート白人女性のそれと重なる。自らの意思で男性と結ばれ子供を産んだ勝ち組女性が、さも自分達こそが一番の被害者であるかのように振る舞う様子は非常に腹立たしいです。その彼女達に虐げられ、にも関わらず世間からは一切顧みられる事のない私達独身喪女がアメリカにおける有色人種女性と同じ。
「保育園落ちた日本死ね」の書き込みが世間に受けたのは、「子供なんか産みたくないし仮に産んでも保育園なんか使いたくない」という叛逆の思考ではなく、「子供を産んで保育園に預けて働く」というモデルケースに唯々諾々として従う思考が根底にあるからではないでしょうか。要は保守なんですよ。保育園に入れろと叫んでいる母親達はまさに権力者であり弱者を虐げる側だと思う。なのにリベラルを名乗る側が何故かそれを支持しているという絶望的な状況がもう。
私は個人としての『子供』の人権は守られるべきだと思っているけれどそれには保育園は不要だと思っているし、三歳未満……ましてや一歳未満の幼い子を一日中預けて親が働くというモデルは歪だと思う。保育園に落ちた云々で怒ってる人達は、当の子どもは保育園に行く事なんか別に望んでいない可能性について考えるべきだと思うんですけれど。オランダでは両親がそれぞれ週の半分ずつ休んで交代で子供の面倒をみるという家庭があるそうですが、日本もその方がいいんじゃない?どうして保育園ばかりにこだわるのでしょうか。

思えば5年前の震災のあの時から特に「子供を守れ」の連呼が非常に気持ち悪いと思ったものでした。状況は変わっていないしそれどころか悪化している。日本はただでさえ人口が多過ぎるのに産めよ増やせよ少子化悪玉論が展開されるのが非常に嫌なのですが、ネットの隅っこで言っても現実に影響なんか与えらえないしなー。
保育園落ちた日本死ねの人は、はてなの匿名の書き込みでニュースになり国会にまで行ったというのに。この落差が酷過ぎて辛い。本当に今は小さい子供のいる女性は絶対に優遇される勝ち組で、にも関わらず弱者面しているという日本版ホワイトフェミニズムで嫌になります。

ロマンティックラブイデオロギーで何が悪い

世間では、「ロマンティックラブイデオロギー」が何かと批判されますが、それにしても。
今の世の中ってそんなに異性愛中心主義かな?そうかな?
私は今現在の日本では異性間の「恋愛」は、相当見下され低く評価されていると思うんですが。
同性愛や、恋愛でない男女の絆を描いた作品で高い評価を受けている作品にも、もし同じ内容のものを男女の恋愛でやったらこんなに評価されてないんだろうなと思えるものは少なくないですよ。

今の世の中、男女の恋愛が「無い」もしくは「主軸ではない」作品は、ただその一点を持って高く評価されているようなところがないですか?その逆で男女の恋愛がメインの作品であれば、それがたとえどんなにエンターテイメントとして面白くとも政治的文化的に斬新なテーマを描いていようとも、低俗なものとして見下される。今の日本はこんな感じじゃないですか?ロマンティックラブイデオロギーどころかどう考えてもその逆。友情や家族愛、同性愛は持ち上げられるけれど異性愛は見下されるのです。
昔から、「少女漫画は恋愛ばかりでつまらない」として見下されてきましたからね。私は恋愛ばかりで何が悪いのか分かりませんが。少女漫画がワンパターンなのだとしたらそれは「恋愛ものばかり」なためではなく「学園ものばかり」だからでしょう。ストーリー漫画としての評価が高いガラスの仮面ベルサイユのばらだって恋愛が多く描かれていますから。恋愛ものだって、多彩な舞台やストーリー展開を描く事は十分可能なのにそこではなく恋愛自体を否定するのはもう恋愛アレルギーとしか。
『恋愛脳』という言葉を蔑称として用いるのも酷いですね。これがもし『友情脳』なら誉め言葉なのでしょうが。(こと男女間の)恋愛に対する「低俗なもの、くだらないもの」という蔑視は凄く強いのに、にも関わらず世の中が異性愛至上主義であるかのように語る人々が多いのは理解できない。
それと、ロマンティックラブイデオロギーを「性行為して当然」という発想と同一視している人もいるみたいですが違和感が。プラトニックなものも含んだ概念でしょうそれ。例えば手も触れずに思い続ける恋なんて、思い切りロマンティックです。
私は逆に現実においてもロマンティックラブイデオロギーが生きて欲しいと思いますよ。現実では、理想の王子様を夢見ているなんて言ったら物凄くバカにされますからね。現実においては……女は男に容姿の魅力を求めるな、理解しあえると思うな、偶然の出会いなんて有りえないから職場や友達の紹介で探せ、スペックが釣り合う相手と妥協婚しろ、そればっかりですから。これのどこがロマンティック?
私は恋愛と性行為は別の問題だと思いますし分けるべきだと思います。今見下されているのは感情としての『恋愛』、持ち上げられているのは物理的な『性行為』。今の日本は、恋愛や婚活は見下すのにその結果であろう性行為や妊娠は持ち上げる。それが凄く歪で気持ち悪いと思います。

ディズニー映画だと、私はアナと雪の女王よりもムーランやポカホンタスプリンセスと魔法のキスの方がポリコレ的に攻めていると思っていて好感度が高いのですが、フェミニストがそれらを評価する声は全く聞いた事がないです。今は決め手が『男女の恋愛』であればもうそれだけで駄目扱いされているような、そんな感じが…。辛い。
アナと雪の女王は…作品としては好きな部分もありますが…、金髪碧眼の典型的コーカソイド美女がヒロインの話を「異性愛中心主義ではない」というただそれだけで政治的に正しい作品として認定し無邪気に喜べるのはどうなの?と思ってしまうのです。今の日本のフェミニストの主流はあまりにもレイシズム問題に対して無関心に思えます。
私は創作物においては異性愛を否定するのではなく、異性愛の中の多様性をもっともっと描くべきだと思います。
ていうか「ロマンティックラブイデオロギー」のアンチは世の中異性愛の作品ばっかりって言うけれど、それはあくまで結果論であって。個々の作品を批判するならともかく全体を見てそう言われても不毛っていうか…。現実社会では数としては異性愛者の方が多数なのにその多数派を多く描いてはいけないというのは変なような。それに、やっぱり実際には言う程世の中は異性愛中心の作品ばかりではないと思いますし。
同性愛や無性愛の作品を賞賛するだけならば分かるけれど、だからと言って異性愛の作品が多数派である事をもって叩くのはやっぱりおかしいと思います。

条件で異性を選ぶってそんなに悪い事?

女性の婚活については男性からも女性からも、男性を条件で選ぶのはよくない、スペックよりも中身重視でフィーリングが合う男性を選ぶべき!というアドバイスがよく聞こえてきます。
うーん、でも、真面目に考えてみて欲しいんですけれど。
自分自身が四大卒ホワイトカラーの女性だとして、四大卒ホワイトカラーの男性と高卒ブルーカラーの男性とで、「話が合う」「フィーリングが合う」確率は果たしてどちらが高いでしょうか?別に後者を見下しているとかそういう訳ではなく、あくまでより「自分に合う」相手かどうかという話です。
「普通の男がいない」に対する反論コピペがおかしいのは、個々の条件があたかも独立して存在しているかのように考えているらしい事です。それは変だと思います。実際には個々の条件には相関関係があるのを無視しているからです。
高学歴高収入の男と低学歴高収入の男だったら前者より後者が少ないでしょう。収入が上の層ほど喫煙率は低いでしょう。つまり各々の条件には確実に相関関係があるし、そうなると外面が理想通りの相手は内面もまたそうである可能性が高いでしょう。
スペックで選ぶっていうのはそれさえクリアしていればオールOKという意味ではなく、あくまで入口に過ぎないと思うのだけど。どうして「結婚したい男に見た目やら収入やらの条件を考える」事が、「スペックしか見てない、中身度外視」という話になるのか。論理が破綻していないでしょうか?要求スペックをクリアしていても中身が駄目駄目な男もいるかもしれない。だけどそれは要求スペックに満たない男でも同じ事(いや、正直言って中身もそうである可能性は高い)。スペックが低い男ほど中身は素晴らしいだなんて、そんな都合のいいおとぎ話があるかって話です。
金持ちイケメンはみんな性悪のクズ男で貧乏ブサメンは心の美しい善人揃い?だったら面白いけれど、現実はそうじゃないよね。
スペックが満たなくても素敵な男性もいるかもしれない?うん、それは確かにそうだね。でもそれは偶然出会って好きになったなら分かるけど、最初からそれ目当てで探す事なのかな。まずスペックが基準にあるかどうかを見て、その上で内面に踏み込んでいくんじゃあいけないんですかね。
良スペックの男性の中身OK率が80%、外れスペックの男性の中身OK率が20%として、後者の20%を探す為に前者の80%を最初っから諦めるというのなら、それって非常にもったいなくてバカバカしい事をしていると思うのですが。スペックが良い男は競争率も高い?あぁ確かにそれはそうですね。でも、スペックを満たさない中から「フィーリングが合う」相手を探すのも、なかなかに大変だと思いますよ。
ちなみにこれ男女逆ならごく当たり前のように行われている事でしょーよ。見た目が凄く悪い女性を「でも中身は天使かもしれないし!」などと思って好意的に見てくれる男性なんてまず存在しませんよ。まずスペックから入るなんて当たり前で、それに対し説教するアドバイスも全くと言っていいほど見ない。
なんで女ばかりが「男をスペックで選ばずに本質を見て」やらねばならないんですかね…。スペックを重視するのは別に「中身はどうでもいい」っていう意味じゃありませんし、あくまで入口の話でしょう。そして恋愛や結婚というのはあくまで個人的な事。誰を選ぼうが選ばれなかろうがそれはその人の自由です。
仮に、高望みした結果一生一人で終わったとしてもそれも自分の人生だから仕方ないんじゃないですかね。反対に外れを掴んだ結果不幸な子供が生まれた場合、自分一人の問題じゃないですから。こと出産、子供という要素を考えたら女は結婚に対し慎重になって当たり前だと思うし、相手のスペックを重視して婚活しても別にいいんじゃないですかね。(自分自身のスペックを上げろっていうのも、勿論その為の手段の一つです。)
好みじゃない男性・対象スペック外の男性を差別したり人間扱いしないというのは勿論駄目ですが、それはまた別の話。恋愛や結婚というのはあくまでも、個人的な幸福追求のための行為です。相手を差別する・人間扱いしないという事と、恋愛や結婚の対象にしないという事は別の話です。そこを混同してはいけないと思います。

同性婚が認められる時代の流れにも関わらずこの記事で敢えて『異性』と限定したのは、女性同性愛者が相手の女性に容姿を求める事については、世間では全く責められていないからです。それどころか積極的に推奨されている。異性愛者の女性が男性に容姿を求める場合とは全く違うから。)

こんな憲法改憲しましょう!!!!!

女性の再婚禁止期間半年は違憲になったのに、夫婦別姓は認めない?って…絶望感しかない。
婚姻改姓の強制が合憲だというのなら、こんな憲法変えてしまえ!と強く思いました。
法律婚の元での夫婦別姓が認められていない事は女性差別とかじゃなく、個人の幸福追求権に対する重大な侵害だと思うのですが。たとえ改姓の男女比が半々であっても改めるべきだと思いますよ。
しかし婚外子「差別」が廃止され、再婚禁止期間の方も廃止されるという事はますますやった者勝ちの無法地帯になりそうですね。前夫の子供を何食わぬ顔で新しい夫に押し付ける托卵女が増えるんじゃないですか?そしてきちんと法律を守って結婚しその範囲内で子供を作りたいという女性はますます不利な立場になると。貞淑な女性には生き辛い世の中になります。
でも、なんかもういいや。今更夫婦別姓が実現したところでどうせ相手もいないしー。「苗字を変えたくなかったから結婚しなかった」という言い訳ができると思えば。酸っぱい葡萄ってことで。
ところでリベラルで護憲派の皆さんは、こんな憲法変えてしまえとは思わないのかな。いい加減、日本国憲法の絶対維持に拘るのには無理がでてきたと思います。9条はこのままでいいけれどそこが真っ先に槍玉にあげられるんでしょうね……。上手くいかないものです。

異性同士の絆は尊い(釣りタイトル)

マッドマックスの、二次創作的な妄想としてのマクフュリは実は好きなのですが。
でもこれはそんなに氾濫していないから安心して愛でられるのかもしれないなと思います。
もしこれでフュリオサが男だったなら、今程度のものでは済まなかったのだろうなと思います。フュリオサを男ヒロイン認定して所構わず自己解釈を披露する腐女子で溢れ、映画のフュリオサの強い部分はスルーしたまに見せたメンタルの弱い部分ばかりを拡大解釈してマックスに救われる和製英語としての「ヒロイン」に押し込めようという解釈が大手を揮う事になったに違いない。亡き妻を忘れないマックスが否定され、フュリオサを置いて去ったマックスが薄情ものと叩かれる事になったかもしれない。それに反論する側は何故か同性愛者差別者扱いされ、自由な意見が言えなくなったに違いない。考えるだけで怖いよ!うわぁ!
あるいはマックスが女だったとしても、「この二人の百合は公式だ」という声が大きくなり、そういう関係でないありのままの映画の二人を愛するファンは少数派になったのでは。
だからあの二人は異性同士で良かったと思わざるを得ないのです。
今や、創作物において「恋愛ではない絆」(マックスとフュリオサの関係を絆と呼ぶかどうかはともかくとして)は男女の間にしか成り立たないのではないか?他に一途に愛する恋人や伴侶がいようとも、同性キャラとの捏造恋愛妄想を止める事はできない。でも男女であれば恋人や伴侶が別にいればその存在によって他の異性キャラとの妄想は食い止められる。いや、男と女であっても年が大きく離れていたり近親者だったりすると危ない。原作では全くそんな関係でなくとも、何故かそこに性愛を見出されてしまう。年齢の釣り合う他人の男女の間柄でしか、恋愛や性欲を前提としない人間同士の関係性がそのままファンに受け入れてもらえる事はなくなっているのではないか。何とも逆説的な話で。
『同性愛は異常』なるレッテルの逆だ。
本来は同性間であろうと異性間であろうと、恋愛や性欲を含む関係もあれば含まない関係もあってしかるべきな筈なのですが。最近のファンは何故かそれが同性同士であれば恋愛や性欲の絡まない間柄であってもそのまま受け入れようとはせずに性愛認定し、否定する者を同性愛差別主義者扱いして叩く。
もちろん、恋愛よりもそうじゃない関係の方が尊いなんて本気で思っている訳じゃない。でも、原作でそういう関係じゃないからその通りだ、と素直に受け止められるという現象は、今のネット上においてはもはや年齢の釣り合う男女の間でしか成り立たないのでは?なーんて思ってしまいました。恋愛でない関係をそのまま愛でるも、妄想は妄想と割り切った上で二次創作で恋愛を楽しむのも自由。それは異性同士の組み合わせだけに許された楽しみではないでしょうか。