『大人』に女性は入らないの?

映画『シン・ゴジラ』のスタッフが「女性受けや子供受けを捨てて恋愛や家族愛要素を排除し、大人向けにした」という趣旨の発言をし炎上したようです。『大人』の中に女性は入らないのか、「女子ども」で括るのか、と批判されています。それには私も同意です。
これと対になると思ったのが仁藤夢乃氏の「私たちは『買われた』展」。この展覧会は、執拗なまでに『大人』という言葉を濫用します。女子中高生を買春したのは男性であり、大人の女性は無実であるにも関わらず『大人』と括って女性を巻き込もうとする。公式サイトには、「大人は分かってくれない」などという使い古された陳腐な言葉も見受けられます。買春するのは『男』であるのに、何故女性も含めた『大人』という言葉で括るのか。この団体の代表こそ女性の仁藤氏ですが、副代表は男性のようなのでその男性に阿っているのでしょうか。しかし現実には女子中高生だけでなく成人女性もまた性暴力や売春の強要の被害には遭っていますし、貧困な女子中高生はやがて貧困な成人女性になります。「女子中高生」「子ども」のみを手厚く保護し、成人女性の被害には無関心(それどころか『大人』と括って加害者側に入れようとする)のは欺瞞ではないでしょうか。猫を子猫のうちだけ可愛い可愛いと飼って成猫になったら捨てるような真似が、どうして人間相手なら推奨されているのでしょうか。
シン・ゴジラ』と「私たちは『買われた』展」は表裏一体の関係にあると思う。前者は『大人』から女性を取り除き、後者は本来男性だけの問題に女性を巻き込もうとする。前者と後者の違いは前者がポジティヴな話題であり後者がネガティヴな話題であるという点でしょう。つまり、映画の成功のようなポジティヴな話題においては女性を『大人』から排除し、買春のようなネガティヴな話題においては女性も『大人』の範疇に入れて無理矢理共同責任を負わせようとする。一成人女性としては前者だけでなく後者も許せないのですが、前者を責めるフェミニストの人々が何故か後者は賞賛しているようなのが本当に不思議です。『子供を「買った」大人』という文面で、勝手に女性までも入れられている事には気付かないのか。それとも彼女達もまた無自覚に『大人』という言葉の中から女性を取り除いているのでしょうか。
いずれにせよ仁藤夢乃氏とcolabo女子高生サポートセンターの活動には胡散臭さを感じますし、『子供』を過度にイノセントなと見做し『大人』を穢れた存在のように見做す考え方には反対します。