『貴方の傷みを私に下さい』
あれから十ヶ月。まだ十ヶ月。もう十ヶ月。
少なくとも私が決めた事はといえば、現在の急進的な脱原発運動は支持しないという事(世論はそちらに向いているのかもしれませんが)。特定の誰かを、何かを悪者にして済ますのはやめようという事(煙草は大嫌いですけどね!)。
原発反対すればそれで済む話ではないと思う。自分には何も出来ないけれど、せめて被災地への差別や攻撃には荷担したくない。
食品の産地が福島だったらなるべく買う。
東電を叩くのもまあ、いい加減にしようと。少なくとも故意と過失の間には壁があり、闇雲に非難しても解決にはならない。ふくいちの現場の人々が一番大変だ。
まだ何も解決していないけれど、それでも今はもうただ悲しんで怒っている時期ではないと思うから。全然終わっていないし長期戦。だからそれなりの気の持ち方で臨む。
放射能は怖いし絶望的な気分ですが、だからといってただ忌避していてもしょうがない。
放射能をもって『汚染』と呼ぶのは嫌いです。もっといい表現はないものかと思います。言葉は言魂だから。ケガレ思想による差別と直結していると思うから。でもケガレだというのなら、そのケガレを引き受ける姿は尊い筈です。
がんばろう日本の次は、分かち合おう日本であるべきではないでしょうか。幸福を与えるだけでなく傷みを分かち合うのも絆。綺麗事だけじゃない、そういう側面は確かにある。
他人の傷みを分かち合う、『汚染』を受け入れる。子供を守れが第一の人達にはそれはどうしても受け入れ難いとは思いますけれど。だけど子供達だって、動物達だって、この現代日本の社会に生まれて生きてきたんですよ。彼等彼女等に責任はないけれど因果関係はある。
それに東京の『汚染』がそんなに問題ならば、瓦礫受け入れ反対ではなく移住を求めるべきでしょう。訴えるポイントがずれています。首都東京に住む利点は維持したままで、一切の不利益を退けようとする母親達の姿の何と醜い事ですか。