パキスタンの「少女」かあ…

パキスタンで女性が教育を受ける権利を訴えた「少女」(マララ・ユズフザイさん)が、ノーベル平和賞の候補になっているらしいとか。
個人的にはあまり賛同できません。教育だけ受けてどうしようっていうのでしょうか。「大学を出たけれど」が大量に生産されるだけのことでは。
何よりも「少女」という言葉が何とも引っかかる。おそらく個人の名前は重要じゃないんですよね。
女性差別の最たるものは年齢差別にあるのに、そこを無視して若く美しい「少女」だからという理由でちやほやするのは、差別の解消どころか助長にしか思えません。女性に対する差別構造を強く肯定しながら、あたかも女性差別に義憤を抱いているかのような印象を与える、このような賞賛の構図は何とも気持ちが悪いと思います。
年齢差別と、それからもちろん容姿差別と。美しく生まれついた彼女はその問題には無縁なのでしょう。
日本では、教育なんか受けても何も変わらないよ、あなたは可愛く生まれついてよかったね、と冷めた言葉で言ってあげたい。
パキスタン政府が彼女に平和賞を授与したのはガス抜きに思えます。それにより、本格的な女性運動の芽を摘むための。
途上国の女性支援を行う団体に対する違和感もそこにあるんですよね。「少女」か「母親」しか見ていない。ただの一個人としての女性の存在は無視している。イランの同性愛者女性を保護する話なども聞きましたから、一個人としての女性を助けようという人々も全くいない訳ではないのでしょうけれど、おそらく大衆の支持は得られないのでしょう。わかりやすい美談や悲劇でないと。
日本の原発事故でも思い知りました。自分の訴えを広く世間に届けるには子供か母親じゃないとダメなんですよね。世間は分かりやすく、絵になる悲劇の構図を求めている。それには「少女」が最適なのでしょう。ジャンヌダルク症候群とでも言いますか。若く美しいことはそれこそが特権階級であり、本当に辛いのは「少女」でなくなった女性の方であるという現実はとことん無視して。
強者を弱者として扱い賞賛し、本当の弱者は踏み躙る。現実はあまりに救いがないなと、このニュースを聞いて思いました。

まあノーベル平和賞なんて就任間もない小浜氏に与えられたくらいのいい加減な賞ですからね。