罪を憎んで人を憎まず(難しいけど)

原発事故により住む所を追われ、いつ帰れるともしれない。双葉町大熊町の人々に対しては本当に気の毒にと思います。聞く所によると以前はお年寄りのための施設なども多く、賑やかで裕福な町だったとか。福祉面が充実している暮らしやすい町だったのでしょうね。行ってみたかったかもしれません(見学で原発に行った事もあったのかもしれませんが、記憶にないです)。
風評被害の大きさを想えば福島原発ではなく双葉原発の名前ではいけなかったのか、と思いますが、今更言っても詮無い事ですね。双葉町大熊町の人々にばかり責任を押し付けるのもどうかと思いますし。
町の人々は騙されたんですよ、それでいいじゃないですか。原発マネーで潤ったとは言ってもその代償はあまりにも大きかった。そんな人達を責める気にはとてもなれません。
騙されていたなんて嘘だ、住民も東電に加担した責任があるなんて言って、ただでさえ家を追われて苦しんでいる人々を責めるべきではないと思います。罪を憎んで人を憎まず。過ちへの糾弾は何も生みません。

そして原爆。私は原爆投下は人類の人類に対する犯罪だと思っています。悲しい事、痛ましい事、あってはならなかった事だと思っているけれど、アメリカに対して怒るという意識は薄い。いや、私やその家族が直接の被害者であったならきっと怒っていたんでしょうけれど。
『American Prometheus』という、ロバート・オッペンハイマーの伝記を読んだけれど、怒りというよりは哀れな気持ちが湧いてきた。罪を犯し、国から裏切られ責められて死んでいった彼が哀れでした。その愚かさがただ哀れだと。
何故二度の原爆投下を受けた日本が原発を設置してしまったのかとも言われますが、逆に、日本だからこそ、という部分もあったのかもしれないですね(アメリカによる実験のようにも思えますが)。原爆の恐怖を知っているからこその、『核の平和利用』として、よかれと思って原発開発を進めていた面もあったのですよね……。はじめは良かれと思ってだったと。私が子供の頃尊敬したマリー・キュリーも『原子の母』と呼ばれる人でしたし。原発推進派を一方的に責めても仕方ないよねーという。
事故の原因追究はしても誰かを責める事はせず、事態の解決に向けて少しでも建設的になれたらいいよねーという。