第五福竜丸展示館

ちょうど新木場に行く用事が出来たので、いい機会だから第五福竜丸展示館を見に行って来ました。
入館は無料。小中学生の団体で混んでいました。中には第五福竜丸のや当時の新聞記事の切り抜き、各種書籍やあちこちの子供達から届いた千羽鶴などがありました。
新聞記事を見て驚いたのですが、完全に今の放射能騒動と同じですね。海洋汚染そのものは大した事ないという学者が悪者扱いされているのも同じ。その是非はわかりませんが。
放射能マグロ、汚染魚、その言葉に胸が痛みました。東京や大阪に放射能マグロが流通する事を何より問題視するような論調に身勝手さを感じずにいられません。核実験は悪いのは確かではありますが。
マーシャル諸島の住民の健康問題と、現地の文化や民芸品と。美しい島島であるだけに悲しいです。
外にある、「放射能マグロ」を埋めたマグロ塚も、とても悲しい気持ちになりました。マグロも人間も被害者ではありませんか。汚染魚呼ばわりはあまりに酷い。そりゃ、マグロに人間のような心はないでしょうけれど。
他人が死を迎える程の被害を受ける事よりも自分や家族がほんの少し不利益を被る事の方が嫌なのが人間心理なのかと思いました。だからJCO東海村臨界事故の後には反原発が今のように盛り上がる事はなかったのでしょうか?
乗組員が入院している病院の前で記者がそこを歩いていた若い女性に「あの方々と結婚はどうですか」と聞いた所、とんでもないというような返答が返ってきたとか…。真偽はわかりませんが、今の福島を巡る状況と一緒ですね。
当時は核実験反対の世論が強まり、署名運動も盛んになったと言います。でも、それでも、核実験は止まない。核兵器はなくなっていない。
「母親達の反核運動」という美名も、何だかな…母になれない女には価値はありませんか、そうですか。母性というものに妙な付加価値を置いて利用するのは昔も今も変わらないのですね。女に無条件に母親である事を要求し、子供というだけで至上の価値を置き特別に祭り上げる、そんな平和運動なら支持出来ません。
核兵器原発を簡単に同一視してしまう考えも、どうなのでしょう。原水爆という、害しかなさないものですら未だに廃絶出来ていないのに、原発という功罪併せ持つものを亡くす事は果たして可能なのでしょうか。
これまで無批判に原発の電気を享受してきた理由と、今になってにわか脱原発を叫んでいる理由は同じではないですか。どちらも利己主義です。無自覚な、あまりに無自覚な。
そんなやり切れない気分になりました。