「発達障害」が障碍ならば、バリアフリーが進められるべき

疑問に思うんですよ。「発達障害」というのが本当に障碍だとして、語られるのが何故当事者を矯正し社会に「適合」させようという方向での「支援」ばかりなのか。
障碍なら、求められるのはバリアフリーではないのか。
目の見えない人には点字ブロック、耳の聞こえない人には筆談、車椅子の人にならスロープを備え付ける。なら、うっかりミスが多い人やコミュ力がない人でも生きていけるように、社会の方も変えていくべきではないのか?もし本当に障碍者だというのなら、尚更当事者にだけ努力を要求するのはフェアでない筈だ。
ヒューマンエラーをカバーできるシステムを作るとか、コミュ力がなくても仕事が成り立つような社会にするとか。必要なのはそういう変革じゃないですか?
でも実際はどうなのか。発達障害と認定した人間には危険性も指摘される投薬を安易に行って、当事者のみに「変われ」と求めているのではないか。それに反対する人間をあたかも似非科学な、頭のおかしい人間であるかのように断定している。
少なくとも、社会一般に対する啓蒙活動なら、身体障害の場合のように新たな設備を備え付けるのと比べたら費用はさほど掛からない筈だ。だが現状は「発達障害とはこういう障碍ですよ」というキャンペーンこそ行われてはいても、そこから進んでの「だから周りの協力が必要だ」という方向には向かっていない。本当に障碍であるのならば、健常者である周りの人間に対し理解と協力を求めても何ら悪い事ではない筈なのに、現状は発達障害者が我が儘で傲慢であるかのように語られる。

発達障害に関する議論では、周りの負担ばかりが叫ばれる。「発達障害」である子供のクラスメイトや配偶者によって、迷惑をかけられ負担を受けていると主張する側の声(その人達だって調べたら発達障害と認定される可能性はゼロではないと思うのだけれど。自分は絶対に発達障害者ではない、という自信はどこから来るのだろう)。「発達障害」者は我儘で自分勝手な人達ばかりだ、その負担を掛けられる自分達は一方的な被害者だ、という声。当事者がどれほど苦しんでいるかは考えもせずに。
しかし身体障碍ではこういう声はあまり聞こえてこないし、あってもここまで圧倒的ではない。