光市事件についてさらに思う(性犯罪)

この事件は橋下徹の存在を含め、いくつもの論点を持つ事件だと思います。
見た限りではこの事件って、性犯罪には付き物の被害者非難がないですよね。常に被害者の側に立って怒る人がこの事件でもそうだというのならいいのですが、普段性犯罪の被害者非難をしている人達がこの事件においては同情一辺倒だと違和感を覚えます。
考えられる理由としては第一に、殺されたから。「本気で抵抗すれば犯されなかった筈だ」とは言われても「本気で抵抗すれば殺されなかった筈だ」とは言われにくいのでしょうか。
第二に、被害者が正社員の夫を持つ若い専業主婦とその子供という、非の打ちどころのない無謬な存在であった事。これがもしシングルマザーとその子供であったなら世論も違っていたように思えるのは考え過ぎでしょうか。
被害者の親族や配偶者である男性が、強姦を男ジェンダーの問題として考えず、加害者が異常な悪人だったからで済ませてしまうのは何故でしょう。間違いなく男性特有の犯罪であるのに、「男特有の」とは言われないんですよね。自分でも起こし得た犯罪として語る男性はいないのでしょうか。被害者の夫もまた。
性犯罪は男の本能だから仕方ないという論法を、この事件に関しては見掛けないのも不思議です(その論法を肯定している訳ではけしてありません)。世論においてはきれいな被害者とそうでない被害者がいるように見受けられてなりません。
この事件に関し、「何の落ち度もない被害者」という言葉を聞くのにも違和感が。落ち度があったらいいのでしょうか。落ち度とはどんなものを言うのでしょうか。制服を着ていたとはいえ見知らぬ人を家に招き入れるのは落ち度ではなくて、暗い夜道を一人で歩くのは落ち度ですか?
被害者遺族と被害者との混同も気になります。被害者は亡くなった二人である筈です。遺族の悲しみは分かりますが、そちらを主に語られるのはどうにも違和感があるのですよね。
妻/娘が性犯罪被害にあった時、その夫/父の権利の侵害という文脈で語られるのを見るのが辛い。家父長制とかそういうものを感じてしまいます。主題は被害者本人であるのが普通なのではないでしょうか。
そして私自身は性犯罪は特に許せない犯罪だと思っています。情状酌量の余地がない。罪を憎んで人を許さずとは言っても、こと性犯罪となると難しいですね、本当に。