美人のレズビアンよりもストレートのブスの方が生き辛いと思う

小池みき著・『同居人の美少女がレズビアンだった件』というコミックを読んだのですが。
これ、タイトルに美少女と付ける意味があったんですかねえ…。美女ならまだしも。美少女って表現が、女は若い方が価値があるという世間一般の価値基準そのままで更に印象悪いです。この本を通してのテーマは「性的指向で人間を記号化せず個人を見よう」みたいな感じだと思うのですがそれにしては「美少女」という言葉がまさに人間の記号化そのもので違和感があるのです。カテゴライズを批判する筈の本のタイトルが思いっきりカテゴライズじゃないですか。
タイトルは単に『同居人がレズビアンだった件』じゃあ駄目だったんですかねえ。20歳を過ぎた女性を「美少女」と表現しその記号性で人目を引こうとしているというのなら、その行為に疑問を抱かないのでしょうか。女は美しく若い程価値があるという世間一般の価値観に思いっきり迎合しているじゃないですか。「レズビアンじゃなくて牧村朝子」と宣言する一方で「美少女」というタイトルに駄目出ししないのはすっごく違和感があるのですが。「レズビアン」よりも余程「美少女」の方が問題のある呼称に思えます。せめて「美女」なら幾つになっても綺麗な人は綺麗だよねって事で分からないでもないですが「美少女」なのって人生のほんの一時期だけですよね…。
とにかく、この本全体に溢れる無邪気なまでのルッキズム、容姿至上主義が気持ち悪い。ブスで彼女のいないレズビアンは出て来ないんですね…。主役である牧村朝子とそのパートナーの森ガールのみならず、作中に出てくるさつきというMtFの人物もまた美しく、ミスインターナショナルに選ばれる程だという。LGBTが必ずしも外見的に美しい訳ではないと思うのですが。
私は世の大多数の女性にとって異性愛者か同性愛者かなんて大した問題ではないと思っている。そんな悩みは幸運にも美しく生まれついたかブスであってもそれを直視せずに済むような超幸福な境遇に生まれたかのごくごく一部の女性の話だと思います。大抵の女性はまず自分の容姿が美しいかそうでないかで悩みますし、美しくなかったらそもそも同性だろうが異性だろうがパートナーを得られないので自分自身の性的指向は割とどうでもいいのではないでしょうか。はっきり言って女内ヒエラルキーにおいて美人のレズビアンとブスのストレートなら、美人のレズビアンの方が圧倒的に上。それのみならず私は、美人のレズビアンと美人のストレートの場合においてさえも別にストレートが有利なんて事実はないと思う。純粋に容姿レベルの高低で判断されている印象。だからこと女性に限ってはLGBTを弱者扱いされるのに違和感があるんですよね。
同性同士の結婚は普通に許可されるべきだと思っていますし恋愛は自由だと思いますがそれでも。こっちからしたら美人のレズビアンの悩みなんて全然甘いって思います。
自分が「女の子を好き」という事で悩めるなんて、一部の恵まれた女性の贅沢な悩みだと思います。もしもブスのレズビアンだったら性的指向以前にブスな事で悩んでいるし恋人だって多分できない。ブスなので同性から冷遇され、彼女ができないレズビアンだっていると思うのですが。そういう問題が完全に無視されているんですよね、この本。
もっとも、男性の場合はまた別だと思います。イケメンのゲイとブサメンのストレートだったらおそらくブサメンのストレートの方がヒエラルキーは上だと思うんですよね…。男は女ほど容姿で判断されず、それどころかイケメンの方が侮られて苦労する場面も多いと思うから。