「マタハラ」を女性問題として語られるのには違和感がある

何故にいわゆる「マタハラ」はあたかも女性全般の問題であるかのように語られるのか。女が全員妊娠出産する訳ではないのに。妊娠出産というのは女として生まれただけで当然行うものではなく、あくまで自分自身の意思で選んだ選択の結果ですよね。個人の意思と無関係な生理とは違う。
出産は女にしか出来ない、と言いますがそこには必ず相手の男がいる訳で(少なくとも現在の科学では)、男女双方の問題だと思うんですが。
「妊婦優遇」「母親優遇」を指して「女性優遇」って言うのもやめて欲しい。妊婦には必ず対になる男性がいるのに、そこは何故か不可視化され、関係ない子無し女性が巻き込まれる。

妊娠しても以前と同じ仕事ができるのに無理矢理降格させられたんじゃなく、妊娠によりできる仕事が減った結果なんですよね?マタハラなのそれ?
妊娠じゃなくて怪我や病気でも、出来る仕事が減ったならその分給料が減っても当たり前だとしか思わないんですが。妊娠は病気じゃないというと反発しますが、病気ならそれを原因に仕事量が減った結果降格させられても「イルハラだ!」なんて言いませんよ…。勿論病気や怪我であってもそれに対する公的な金銭補助は必要だと思いますが、それを全て会社に求めるかというとまた別の問題のような。
なんでも会社に求めすぎでは。
ま、現状の週五・八時間労働を基準にした給与体系自体に問題があると思うのでそこを根本的に見直すというなら分かりますが、労働時間の柔軟性を図るのではなくそこは維持したままで妊婦や母親だけに特別待遇を与えるというのなら歪んでいると思います。
結局いつもそれなんですよね。全体の改善を図るのではなく一部のみを特別扱いするのでそれ以外の人にしわ寄せが行って泣き寝入りする事になる。
年単位で休暇を取って戻ってくる、というモデルも、出産や育児に限らず病気でも留学でもリフレッシュでも何にでも認めればいいのにそうしようとはしない。結局、妊娠出産子育てというのは「神聖な仕事」でありそれだけを特別扱いしろと言って憚らない人々が多数派のようです。
少子化対策だから!子育ては社会に貢献しているから!と言いますが、社会というのは産めよ増やせよだけで成り立っている訳じゃないと思います。そもそも世界規模では人口爆発ですし日本の人口も多過ぎるのに少子化と言われても。
非正規労働者の女性が妊娠したら辞めさせられた、みたいな本当にマタハラと言える事例は勿論なくすべきだとは思いますが。
でも、それが解消された事で恩恵を受けるのは「女性」じゃないですよね。マタハラは子供がいない女性には無関係な話ですし、妊婦の収入が上がればそれだけその夫も得する(精子バンクや別れたパートナーであっても、自分の子供を育ててくれる女性の収入が上がる事はプラスになる)。要は子供のいる人といない人の問題でしかないのに、何故に女性全般の話であるかのように語るのか謎です。
妊婦に働きやすい会社が全女性に働きやすいとは限らない(独身女性社員もプライベートを重視させてくれるならいいのですが必ずしもそうなるとは限らない。それどころかその逆になるパターンだって多い)が、その妊婦のパートナーの男性にとっても得であるのは確か。この種の問題が語られる時、子供の父親の存在がまるっきり抜けているのが気になる。
とにかく「マタハラ」はフェミニズムの範疇の問題じゃないと思うんですけれど。
何故世間ではマタハラやワーキングマザー問題について語る時、カップル単位で語らないのか謎です。妻の収入が増えればその分夫も得するでしょ?母親個人ではなく世帯収入で考えるべきでは?(別れたパートナーであっても、精子バンクであっても、本質的には同じ事です)
逆に夫の収入が多ければそれだけ妻が得する訳ですし、「男は子供がいても独身と同じように働けるのに女ばっかり損してる!」という理屈には違和感があります。「子供がいても働いて高収入」な夫がいれば、それだけその妻が得する訳ですから。何故世間でこの辺の問題を語る人達は、物事を男女の二項対立で考え、夫の収入と妻の収入を完全に独立したものであるかのように語るのかな。
とにかく男と女の対立にしたがり、ワーキングマザー優遇の皺寄せを受けた独身女性が反発しても「女の敵は女!」「同じ女なのに味方しないなんて!」と言論統制されてしまう。その現状が本当に理不尽だと思います。
「子供のいない人には分からない」? はい、その通りです。独身には子持ちの気持ちが分からないけれど、子供のいる女性には必ず独身や子無し時代があったのだから、こっちの気持ちも少しは分かってはくれないですかね。

「発達障害」が障碍ならば、バリアフリーが進められるべき

疑問に思うんですよ。「発達障害」というのが本当に障碍だとして、語られるのが何故当事者を矯正し社会に「適合」させようという方向での「支援」ばかりなのか。
障碍なら、求められるのはバリアフリーではないのか。
目の見えない人には点字ブロック、耳の聞こえない人には筆談、車椅子の人にならスロープを備え付ける。なら、うっかりミスが多い人やコミュ力がない人でも生きていけるように、社会の方も変えていくべきではないのか?もし本当に障碍者だというのなら、尚更当事者にだけ努力を要求するのはフェアでない筈だ。
ヒューマンエラーをカバーできるシステムを作るとか、コミュ力がなくても仕事が成り立つような社会にするとか。必要なのはそういう変革じゃないですか?
でも実際はどうなのか。発達障害と認定した人間には危険性も指摘される投薬を安易に行って、当事者のみに「変われ」と求めているのではないか。それに反対する人間をあたかも似非科学な、頭のおかしい人間であるかのように断定している。
少なくとも、社会一般に対する啓蒙活動なら、身体障害の場合のように新たな設備を備え付けるのと比べたら費用はさほど掛からない筈だ。だが現状は「発達障害とはこういう障碍ですよ」というキャンペーンこそ行われてはいても、そこから進んでの「だから周りの協力が必要だ」という方向には向かっていない。本当に障碍であるのならば、健常者である周りの人間に対し理解と協力を求めても何ら悪い事ではない筈なのに、現状は発達障害者が我が儘で傲慢であるかのように語られる。

発達障害に関する議論では、周りの負担ばかりが叫ばれる。「発達障害」である子供のクラスメイトや配偶者によって、迷惑をかけられ負担を受けていると主張する側の声(その人達だって調べたら発達障害と認定される可能性はゼロではないと思うのだけれど。自分は絶対に発達障害者ではない、という自信はどこから来るのだろう)。「発達障害」者は我儘で自分勝手な人達ばかりだ、その負担を掛けられる自分達は一方的な被害者だ、という声。当事者がどれほど苦しんでいるかは考えもせずに。
しかし身体障碍ではこういう声はあまり聞こえてこないし、あってもここまで圧倒的ではない。

中国も一人っ子政策をやめた事だし、日本も少子化対策をやめませんか?

中国が一人っ子政策をやめるようです。人口比はいびつになるでしょうが、これでまた中国の人口が爆発的に増える可能性が高まった訳です。
いい機会です、これを機に日本は少子化対策をやめませんか?
中国が頑張ってヒトを増やしてくれるみたいですし、日本がヒトを増やす必要はもうないでしょう。
こと少子化(というか人口)問題に関しては、保守系の人達のみならずリベラル系の人達すらも「日本」という枠組みに妙にこだわっているように見えて違和感です。リベラル系の人達って国や民族にこだわらないような事を言う割には「日本人」を増やす事に拘泥しているように見えて理解に苦しみます。
どこの国の人だろうと同じヒト科ヒトに変わりはないと思います。人口問題を考えるならば特定の国に拘らず地球全体で考えるべきだと思います。
仮に人種ごとに分けて考えるとしても日本人と中国人は同じ東アジア人であり見た目も殆ど変らない。なら、中国の人口が再び増えるならばそれに伴い日本は人口を減らすべきではないでしょうか。

従軍慰安婦問題を国益問題にするな

新聞で従軍慰安婦の記事を見る度不快になる。
なぜ従軍慰安婦問題を国益問題として語り、認める事が日本の不利になるかのように書くのか。
この問題は女性の人権問題であり、問題とされるべきは「男」の性質であって「日本」ではないのに。なぜ女性の人権問題を国と国との問題であるかのように矮小してしまえるのか。本当に不快だ。
女性でもこの問題で被害者叩きをしている人がいるが本当に信じられない。被害者への同情ではなく蔑視を籠めた意味で「売春婦」という言葉を書ける神経も。本当に嫌なのだがネット上では不意打ちで見る事が多くて嫌になる。

言葉狩りという言葉は嫌いだし、福島をフクシマって呼ぶな

http://b.hatena.ne.jp/entry/270017994/comment/zyzy

これにめちゃくちゃむかついたので。
なぜ全ての人を調べた訳でもないのに『性差別用語は変えようとすると「言葉狩りがー」という人たちに限って、何故かフクシマという言葉を言葉狩りするよなぁ……。福島とフクシマは別物として扱うからこそ別表記になるのでは? 生の福島は福島なわけで。』などと言い切るんです?

「私は言葉狩りという言葉が嫌いです」
http://d.hatena.ne.jp/nanamino/20130323

私は福島をフクシマと呼ぶなとも、性差別用語を使うなとも、何度も言ってきたのに。他人を傷付ける言葉を改めようとする事をもって言葉狩りなどと呼ぶのはバカげている。無名だからといって『差別用語は変えようとすると「言葉狩りがー」という人たち』に勝手に分類されるのか。全ての人を確かめた訳じゃないのに勝手に断定しないでください。こうやって一括りにして断じられる事ほど不快な事はない。
差別用語だろうが、「フクシマ」だろうが他人を傷付ける言葉は変えていった方がいいに決まっている。
『生の福島とフクシマは別』については当事者からすると何を言ってるんだこいつはと言うしかない。音が同じ福島でしかないのに何故「別」だと思えるのか。仮に「別」だとしたらスティグマとしての、現地に住む人々を差別する意図を持った言葉に他ならない。そんな言葉を平気で使っておいて福島の味方を気取るな。
「フクシマ」には会津地方が含まれないと言っている人もいましたが、そんな自己定義で話しても意味が伝わらないからやめた方がいいと思います。原発周辺だけを指すのなら、素直に「原発周辺」って言えばいいじゃないですか。
「フクシマ」という言葉を使う事によって現実に人の心を傷付けているのに、どうしてそれで心優しい人間だと自認できるんだろう。
外国人から見たら福島もフクシマも同じFukushimaでしかないのに、わざわざカタカナで呼び分けて言葉遊びに浸る意味も分からない。
そもそも東電の原発なんだから「東電の原発」と呼べばいいのに何故敢えて福島の名を使って福島に穢れ意識を植え付けようとするのか。
原発反対ならそれこそ「トーキョー」と呼べばいい。そうしたら2020年の東京オリンピックにだって海外からも「トーキョー危険じゃね?」という声が増えるでしょうよ。東京とトーキョーは別だなんて詭弁は通じないのだ。

フランスでは発達障害認定される子供が少ないらしい

日本のリベラル派はやたらとフランスの少子化対策を持ち上げますが、そのフランスでは意外と「発達障害」認定される子供は少ないらしいですよ?フランスでは日本やアメリカと違い、「発達障害」に親の育て方も影響も認めているらしく、小さい子供への発達障害認定やましてや投薬にはかなり慎重であるらしいです。もし本当ならそれは良い事だと思いました。

フランスの子供にはADHDが少ない  http://www.amakanata.com/2013/06/adhd.html

ADHDを「診断しない」フランスの取り組み - 発達障害 http://shirokuma-melancholy.seesaa.net/article/422372936.html

なぜフランスにはADHDが少ないのか? http://www.franceplusplus.com/2015/04/adhd/

検索して出てきた記事いろいろ。
今後はフランスの状況も変わっていくのかもしれないが少なくともこれまでは日本程発達障害認定を濫用してはいなかったらしい。良い事だったと思います。
しかし、フランスの少子化対策を持ち上げる日本のリベラルが、この点に言及したのを見た事がない訳ですが……。フランスのやり方が本当に正しいのかどうかは分からない、でもフランスを持ち上げるのならばこういう教育方法に言及しないのはフェアじゃないのではないでしょうか。

かつて橋下徹発達障害は伝統的子育てで防げると言った時に小さい子供を持つ親御さんたちが一斉に彼を中傷した、あの現象は凄くグロテスクに見えました。私は橋下徹の事は全く支持していませんがあの発言は妥当だと思ったのです。そもそも「発達障害」者として不自由するかどうかは周りの寛容さによって大きく左右され、同じ資質を有する子供であっても周りが温かく接してさえいれば何ら問題なく成長できる場合が殆どだと思うからです。しかし彼を攻撃した親御さん達はとにかく「発達障害は先天的な脳の障害であり育て方は関係ない」と言い切りました。環境要因などは露ほども認めないらしい。『発達障害』なるものが果たして本当に存在するかどうか怪しい段階であるにも関わらず、親の育て方は関係ない、先天的に脳が出来損ないなだけだと言い切る事に何ら疑問は覚えないらしい。とかく自分達の子育てに非がないと認められる事が第一であり、その為には我が子を欠陥品と見做す事を選んだように見えてなりません。そこに子供への愛情は感じられませんでした。恐ろしい事だと思います。
「私達の子育てには何も問題ありません。ただこの子が生まれつき出来損ないだっただけです」……こんなことを平気で言う親って一体何なんでしょうか。
日本のリベラルは口先では子供の人権を気にする割に、「発達障害」という生涯変わる事のない欠陥品の烙印を押された子供達がそれについてどう思うかなどは一切考えていないようです。一生そのスティグマを背負って生きざるを得ない子供達のなんと気の毒な事か。「発達障害」のスティグマを与えられた子供達は自尊心を失い、周りに合わせて矯正を要求され縮こまって生きていく。もしかしたら個性的な子、才能豊かな子としてのびのびと育ったかもしれないのに。発達障害認定は子供の可能性を潰すと思います。
発達障害」に親の責任はない、と断言するのはただ単に親を免責したいだけでは?子供の人権に配慮しているそぶりでその実当事者の気持ちなどどうでもいいようにしか見えない日本のリベラルのグロテスクさを感じます。

反差別主義者はいわゆる「発達障害」

そもそも「発達障害」なる概念自体が人を差別しレッテルを貼るために作られた疑似科学的概念だと思っていますが。もし発達障害などというものが実在するとして。差別を許せない人、正義感の強い人というのはきっと皆「発達障害」なのだろうなと思います。この世の中は不正義に満ちていますから。そんな現実を「仕方ない」とシニシズムを持って当たり前のように受け入れられるのが定型発達者であり、それにどうしても耐えられない弱い、あるいはまっとうな人間こそが「発達障害者」なのではないでしょうか。
発達障害者認定される人々って結局はただのまともな倫理観と正義感を持った思い遣りのある優しい人に過ぎない事が大半だと思う。
私はいわゆる発達障害者ですが、人を容姿によって選別し扱いを変える事や同じ行動をしても相手によって対応を変える事がどうしても理解できない。当人にはどうにもならない生まれながらの事柄で人を差別するのが許せないと思うし、法や倫理に反した行いを共同体の暗黙の了解として不問に処す事に強い不快感を覚える。
いわゆる「発達障害」の中にも差別主義者はいるとは思うが、反差別主義者は全ていわゆる「発達障害」だとは言えると思う。
世の理不尽に耐えられない、そんな世の中を変えたいと思う正義感を持った人間はけして「定型」では有り得ない。そうした人間に発達障害というレッテルを貼って締め出す社会では差別がなくなる筈もない。定型天国の日本はまさに差別肯定社会。そりゃあ海外にだって差別は沢山あるだろうけれど、ここまで社会全体で差別を積極的に肯定している国も少ないんじゃないだろうか。
基本的人権なんていう発想を考えだし、それを頭から信じられる人間がいわゆる発達障害でない筈がない。逆に言うと定型の場合人権を信じているふりをしていてもその実どこかに差別を肯定する思想が混じる。人権運動なんてものは「発達障害」者でなければ起こせないと思う。