やはり公務員の給与は高過ぎだと思う

「公務員の給料は高過ぎ」という話題になると、そんなに高くないという人がいますがやっぱり高いと思うんですよね…。明らかに貰い過ぎですって。
「公務員の給与は大企業の正社員と比べれば高くない」という反論がありましたが。うーん私はそもそも大企業と中小企業とで給与に差がある事自体おかしいと思うのですが…。大企業の利益が高いのはそれだけ人が多いからであって、労働者一人一人に配分したら一人当たりの給与は中小企業と同じになるのが自然な形では。そうならないのは(例えばアルバイトからの搾取などで)構造自体が歪んでいるからなのでは。
「もしかしてコンビニバイトと比べて言ってる?」みたいに言っている人もいましたが、そもそもコンビニバイトの給料は安くて当たり前だというその考え方自体がおかしいのでは?コンビニバイトって要求されるスキルがかなり高いですよ?同時にあれもこれもとこなすマルチタスクスキルが要求され、品出ししてても掃除してても客が来たらすぐさまレジに飛んで行かなくてはなりませんから。一度に一つの事だけ要求される専門職の方が、高度な知識や技術は必要でしょうけれど楽な面もあると思います。よく「誰にでもできる仕事だから給料が安いのは当然」と言われるけれど「誰にでもできる仕事」が本当に誰にでもできる仕事なのか考えた方がいいと思います。
まあ実際には給与は仕事の大変さというよりもどれだけの利益を生み出したかで決められているのだとは思いますが、それだって本当に貢献度を考慮した結果で考えられているとは思えない。実際に製品を作っている現場の給料が安くて、ただ得意先と付き合っているだけの営業の給料が高いなんて明らかにおかしいでしょう。
いっそ公務員の給与を最低賃金として規定し、全ての労働者にはそれ以上を払うようにすればいいんじゃないかと思いました。
公務員の給与を最低賃金にしろと言う提案を『懲罰的発想』と評している人がいましたが、えぇー。それって最低賃金は生きていくのに到底無理な低すぎる金額だって認めるって事ですか?『懲罰的発想』などと言う人々は、今現在最低賃金で働いている人々に対する自分自身の見下し意識に気付いていないのが凄い。最低賃金は一人の人間がフルタイムで働いたら自活して生きていくのに十分な額に設定すべきであり、公務員の給料をその額とする事には十分な合理性があると思うのですけれど。
公務員の給料を下げたら民間の給与も下がると言っている人もいましたがそれもおかしい。なぜなら公務員の給与を元に民間の給与が決められているのではなく、民間の給与を元に公務員の給与が決められているからです。公務員の給与がたとえ低くなったとしても民間企業が「じゃあうちも下げよう」となるかと言えばそれはまた別の話。
「バブルの頃は公務員は給料が安いと蔑まれていた」と言う人もいますが、今公務員を羨んでいる世代はバブルの頃を直接に知っている訳でもないのにそういう言い方をされてもとばっちりとしか。それにバブルの頃だろうと田舎はやはり公務員の方が安定して高給で人気あったと思うんですが。
月収手取り22万という額を上げた公務員の給与に対し「十年働いてる割には安い」と言った人もいましたが「いや、こっちは十年二十年と働こうが給料が上がる見込みなどないんですけれど?」としか言いようがないです。勤続年数で給与が上がるという発想自体、一部の恵まれた人の意見ですよね。しかもこの問題に関しては、勤続年数に応じて給与が上がるというシステムに対する疑問は必ずしも『嫉妬』や『僻み』とは限らないと思う(給与は常に一定に保った上で社会保障費を、無業者を含めた各国民に直接保障するというモデルにした方が合理的なのではないかという意見もあるので)。

ブレンディのCMに対する反応を見て

牛を高校生に擬人化し『卒牛式』を行いその中で生徒達の末路が決められるというブレンディのCM。いやー本当に気持ちが悪くて嫌ーーーなCMでした!!ブレンディ絶対に買いたくない!と思いましたね!一年前のWeb限定CMに今更反応するなんておかしい、と言っている人もいますがその理屈が全く分からない。いいじゃないですか、一度世に出たものにいつ感想を書いたって。
ブレディのCM批判に対し、なぜか藤本弘先生の名作SF(すこし・ふしぎ)のミノタウロスの皿や気楽に殺ろうよを持ち出す人がいましたがやめてほしいですね。作品のレベル自体が全然違いますし第一単体で完結する漫画作品と商品の販促のためのCMでは目的からして違う、それを無視しては語れない。
そう、このCMが何よりも気持ち悪いのは男子高生が屠殺され肉牛となり女子高生が乳牛として「濃い牛乳を出し続ける」ストーリーをどうやら本気で「感動作」として描いているらしい事です。(サイトを見たらマジで感動作って書いてありました……。)ストーリーラインが同じでも、敢えて気持ちの悪いものを書いた問題提起としてならありだったかもしれません。でも商品のCMにしてしまった以上、このディストピアをまるごと肯定する構造にならざるを得ないんですよね。
牛の擬人化だといいますがもしそのまま牛でやったとしても感動作とは思えないです…。人間の食生活は生き物の命を犠牲にして成り立っているという意味での「感動」ではあるかもしれませんがこのCMが目指しただろう路線とは違うでしょう。そもそも主人公の女子高生が走りながら胸を揺らす描写などから、牛の擬人化と言いつつそれ以上の意味が籠められているのは明らか。それがとても気持ち悪い。
で、思ったのはよく表現規制問題に関して反対派界隈が言う、「これが駄目ならミステリーの殺人はどうなんだ」という反論。いやミステリーでは殺人は悪い事として書いてあるし、真相を解明するのが目的ですし、たとえ犯人に同情すべき事情があってもそれでも殺しちゃ駄目だってなってるでしょうっていう。たまに殺人犯が主人公の作品があっても、それでも殺人はやっちゃ駄目だという結末で終わるのが基本でしょう。例外がゼロだというつもりはないけれど、主流ではないのは確か。
主人公が正義の名の元に殺人を行うデスノートだって、最後は主人公の敗北で終わる訳です。この意味は大きい。
性犯罪だってそれが作中で肯定されているか否かで全然違うでしょうに。そういえば凌辱ものの漫画や小説のオチで加害者が逮捕され刑務所に行くなり被害者からきっちり復讐されるなり偶然事故に遭うなりの、因果応報がきちんと描かれた作品って見た事ないような。いや、あるところにはあるのかもしれないけれど多分主流ではないと思う。もし加害者がちゃんと痛い目を見る作品が主流だったら、性暴力ポルノ反対派の見る目も大分変わってくるのでは?って思いました。
創作物の中で同じ行為が描かれていても、その行為が作中で肯定されているか否定されているかで全然違う。違うものを同列に並べてはいけないと思います。
とはいえ、どうやら世の中には、作中で明白に『悪』として描かれた行為や人物に心酔するファンも少なくないらしい。……という事も、ネットをやっていて分かってきました。
例えばジョジョの奇妙な冒険DIOとか。「ネタとしてやってる」のかもしれないけれど本気でかっこいいと思って彼の行為を肯定的に語るファンが少なくないように見えます。まあジョジョならまだネタで済むかもしれないけれど作品によっては作中で『悪』としてはっきり否定されているキャラクターの行為を本気で肯定するファンが少なくなかったりする。偽善こそが最も許されざる悪であり、絶対悪は逆に清々しく素晴らしいと考えているような人々が最近とみに増えたように感じられる。そう考えると私が思う程に世の中は創作物の描写に対し「作中での扱われ方」を重視しないのかもしれない。それが怖い。

湊かなえの『母性』

湊かなえの『母性』を読みました。
しかし、んー。いまいちでした。母子密着とか、子供を上手く愛せない母親、父親の無責任さといったテーマは良いと思うのですが、ミステリーやホラーとして考えると面白くない。
最後に清佳の名前が呼ばれるけれど、あの意味がいまいち分からない。我孫子武丸の『殺戮にいたる病』のように、母かと思われていたのが実は娘だったみたいなどんでん返しがあると面白いかと思ったのですが特にそういう事もなく。単に娘が名前すら読んでもらえていなかった不憫な子だったって事なんですかね。もし娘の名を付けたのが父で、仁美から一文字とった名前だったりしたら、母親から嫌われる理由がわからなくもないのですが。あるいは母の名がルミ子なら、おばあちゃんの名前がルリ子とかルイ子とかそういう名前で、娘にも同種の名前を付けたかったけれど姑に阻まれてしまったとか……。
冒頭の教師が実は娘本人だったというのだけではいまいちオチとしては弱いような。
ミステリー的な真相で言うのなら、嵐の日のおばあちゃんの死を招いた諸悪の根源は絵を取りに戻った父(ルミ子の夫)であったというのがそれなのかもしれませんが。その扱いも軽くていまいちよく分からない。
その夫は戻ってきて愛人とも別れ、ルミ子は姑の介護で苦労しているが名前を呼んでもらって報われ、って上手くまとまりすぎのような。
最後が何となくハッピーエンドみたいになっているのも、それまでがドロドロ過ぎるだけに釈然としない。このストーリーなら清佳もまた娘を産んでその子の事を上手く愛せず虐待の連鎖が起こるという終わり方の方が相応しかったような…。ループオチの方が似合ってるように思うんですよね。

美人のレズビアンよりもストレートのブスの方が生き辛いと思う

小池みき著・『同居人の美少女がレズビアンだった件』というコミックを読んだのですが。
これ、タイトルに美少女と付ける意味があったんですかねえ…。美女ならまだしも。美少女って表現が、女は若い方が価値があるという世間一般の価値基準そのままで更に印象悪いです。この本を通してのテーマは「性的指向で人間を記号化せず個人を見よう」みたいな感じだと思うのですがそれにしては「美少女」という言葉がまさに人間の記号化そのもので違和感があるのです。カテゴライズを批判する筈の本のタイトルが思いっきりカテゴライズじゃないですか。
タイトルは単に『同居人がレズビアンだった件』じゃあ駄目だったんですかねえ。20歳を過ぎた女性を「美少女」と表現しその記号性で人目を引こうとしているというのなら、その行為に疑問を抱かないのでしょうか。女は美しく若い程価値があるという世間一般の価値観に思いっきり迎合しているじゃないですか。「レズビアンじゃなくて牧村朝子」と宣言する一方で「美少女」というタイトルに駄目出ししないのはすっごく違和感があるのですが。「レズビアン」よりも余程「美少女」の方が問題のある呼称に思えます。せめて「美女」なら幾つになっても綺麗な人は綺麗だよねって事で分からないでもないですが「美少女」なのって人生のほんの一時期だけですよね…。
とにかく、この本全体に溢れる無邪気なまでのルッキズム、容姿至上主義が気持ち悪い。ブスで彼女のいないレズビアンは出て来ないんですね…。主役である牧村朝子とそのパートナーの森ガールのみならず、作中に出てくるさつきというMtFの人物もまた美しく、ミスインターナショナルに選ばれる程だという。LGBTが必ずしも外見的に美しい訳ではないと思うのですが。
私は世の大多数の女性にとって異性愛者か同性愛者かなんて大した問題ではないと思っている。そんな悩みは幸運にも美しく生まれついたかブスであってもそれを直視せずに済むような超幸福な境遇に生まれたかのごくごく一部の女性の話だと思います。大抵の女性はまず自分の容姿が美しいかそうでないかで悩みますし、美しくなかったらそもそも同性だろうが異性だろうがパートナーを得られないので自分自身の性的指向は割とどうでもいいのではないでしょうか。はっきり言って女内ヒエラルキーにおいて美人のレズビアンとブスのストレートなら、美人のレズビアンの方が圧倒的に上。それのみならず私は、美人のレズビアンと美人のストレートの場合においてさえも別にストレートが有利なんて事実はないと思う。純粋に容姿レベルの高低で判断されている印象。だからこと女性に限ってはLGBTを弱者扱いされるのに違和感があるんですよね。
同性同士の結婚は普通に許可されるべきだと思っていますし恋愛は自由だと思いますがそれでも。こっちからしたら美人のレズビアンの悩みなんて全然甘いって思います。
自分が「女の子を好き」という事で悩めるなんて、一部の恵まれた女性の贅沢な悩みだと思います。もしもブスのレズビアンだったら性的指向以前にブスな事で悩んでいるし恋人だって多分できない。ブスなので同性から冷遇され、彼女ができないレズビアンだっていると思うのですが。そういう問題が完全に無視されているんですよね、この本。
もっとも、男性の場合はまた別だと思います。イケメンのゲイとブサメンのストレートだったらおそらくブサメンのストレートの方がヒエラルキーは上だと思うんですよね…。男は女ほど容姿で判断されず、それどころかイケメンの方が侮られて苦労する場面も多いと思うから。

『クジラの子らは砂上に歌う』

書店でふと手に取って読みました。このマンガがすごいに選出されたりして、今絶賛ステマ中らしい。
作者によればあくまで少女漫画との事ですが、どちらかというと男性に受けそうな話だと思いました。近いうちにアニメ化しそう。
今の所面白いけれど、連載が続くと進撃の巨人みたいにダレそうで怖いです。やはり連載漫画は完結してからでないと怖くて読めない……。

砂の海を行く泥クジラに乗って生活する、500人程の人々の話らしいです。世界観がナウシカラピュタの頃のジブリって感じ。砂を感じさせる絵が美しい。単行本のおまけページに各種設定や習俗などが載っていてなかなか面白いです。
面白いと思ったのは、サイミアと呼ばれる特殊能力を持つ人々(印と呼ばれる)が多数派で寿命が短く、特殊能力を持たない人々(無印と呼ばれる)が少数派で寿命が長いという点ですね。印の人々は三十年前後で亡くなり無印の人々は我々と同程度に長生きする。それゆえに首長をはじめとする指導者は無印の中から選ばれるとか。特殊能力ものだと能力者が差別されている作品が多くそれにいまいち納得いかなかったのですが、この作品は寿命という要素を絡めた所がよかったと思います。それも寿命の長い方も不老という訳でもなく、あくまで現実の人間程度の長生き。しかも印の方が圧倒的に多数派である事から、そちらが差別されているという印象も受けない。印に生まれるか無印に生まれるかは血縁と関係ないらしいのも面白いですね(兄のスオウが無印で妹のサミが印だったりする)。
ただ、この手のファンタジーによくある事として、子供は純粋で前向きで大人は汚く保身的だというありがちな流れになっている部分もあるのがやや残念(この手の子供様至上主義のテンプレにはもういい加減うんざりなのです…。創作する側も大人が多いだろうに、なんでこうまで大人sage子供ageの作品ばかりが量産されているのか)。無印であり、首長タイシャ42歳を慕うクチバ39歳の存在がかすかな救いか。
ナレーションは主人公チャクロが未来から振り返るという形のようなので、最終的には主人公がちゃんと歳を取って素敵な大人になっている終わり方である事を祈る。

「少年犯罪は凶悪化していない」……で、だから何?

「少年犯罪の凶悪化」に対して、データをもって「昔の方が少年犯罪は多かった。昔の方が残忍だった」と反論する声が大きいですが、たとえ少年犯罪の数そのものが少なくなったとしても、それと個々の犯罪に対する対処は別の話では?そこを勘違いしている人々が多い気がします。
全体ではなく、個々の事例を見るべきでは?マクロだけでなくミクロを見るべきではないかと思います。人間の命は単なる数字じゃない。殺された人にとってはそれが全てなのだから。
刑罰は犯罪の抑止の為でなく、既に起こってしまった犯罪にどう対処するかの問題ではないでしょうか。犯罪抑止は刑罰ではなく社会政策や経済、教育問題や事前の防犯、パトロール等から行うべきだから。犯罪を減らす為に出来る事は厳罰化以外に沢山あるでしょう。
(だから、死刑を廃止しても凶悪犯は増えていないという理屈も死刑反対の論拠としてはおかしい。死刑の不可逆性と冤罪の可能性を考慮して死刑に反対するなら分かるが。)
少年犯罪全体の数がどんなに少なかったとしても、その少数の犯罪を正しく罰する事は必要な訳です。0なら別ですが0でない限り、件数が多くとも少なくとも関係ない。少ないからといって対処が甘くていい訳じゃないと思います。たとえどんなにごくごく少数であっても、その少数の凶悪犯は無視してはならないと思います。少年犯罪の件数が多いか少ないか、で判断してはならないのです。
数が少ないから軽視していいという理屈ならば、例えば同性婚について「同性愛者は少数だから同性結婚を認める必要はない」という理屈になりますが、少年犯罪への『厳罰化』反対を唱える人達は大抵同性婚には肯定的ですね、何故でしょう?
どうも日本のリベラルの人っていうのは、こと年齢差別については鈍感な気がする。新卒至上主義への批判もあまり見ないし。フェミニズムについても結婚可能年齢の男女の違いはあまり問題視されていないように思えます。何故でしょう?男女平等を語るならば、婚姻可能年齢の均等化はまず第一に必要だと思いますが。
現状維持派は少年法廃止論を感情論と切り捨てますが、少年は未熟だ、かわいそう、更正の余地がある、……彼ら彼女らの言い分は、それこそ理性を失った感情論そのものでは?少年だから特別扱いすべきというのが感情じゃなくて何なのでしょう。
同一労働同一賃金。ならば同一犯罪同一刑罰であるべきでは?場合によっては情状酌量の余地もあるでしょうが、年齢がその基準になるとは思えない。
少年法の廃止を訴える人に対して「リンチをしたがっている」「私刑だ」と認定する人達がいますが、単に成人の犯罪者と同じように裁く事のどこがリンチなのでしょうか?現状、大人の犯罪者はリンチされているのですか?もし被疑者の扱いそのものに人権侵害があるというのならばそれは少年法ではなく全ての年齢において等しく改められるべきでしょう。
私は少年法は年齢差別そのものなので、即刻廃止すべきだと思っています。責任能力の多寡は年齢ではなく個々の犯人ごとに検討すればいい。更正の可能性を考えて対処するというのなら、一律に年齢で区切る意味はどこに?14歳でも(神戸の元少年Aのように!)更正の余地がないクズはいる。40歳でも60歳でも、情状酌量の余地がある人や更正の可能性が高い人はいる。いわゆる累犯障害者だって、中高年にこそ多いでしょう。
私は必ずしも厳罰化指向ではありません。状況を勘案した結果刑罰を軽減されて然るべき加害者は大人にだっている。年齢で一律に判断するのはおかしい。

ていうか『厳罰』っていう言葉もミスリードですね。厳罰ではなく適正化と呼ぶべき。犯した罪の重さに応じて成人と同様に扱う事は厳罰でも何でもない。
実名報道については冤罪の可能性がある以上、成人の被疑者の場合こそ改めるべきでしょう。少年だから実名報道しないという特別扱いはおかしい。

ダサピンクっていうけどさあ

最近「ダサピンク」(商品の開発者が女性はピンクが好きだろうと決め付けてその結果ダサいピンクの商品が量産される事……らしい)という言葉をよく聞きますが。
正直、別にどうでもよくない?そんなに騒ぐ事?って思ってしまいます。
私はピンクは好きですし。ピンクしか選択肢がないのならともかく他にも選択肢があるなら別に文句を言う必要もないと思いますし。
それに第一、この言葉を使う人達の間ではそのデザインは「ダサいもの、イケてないもの」と無条件に決めてかかっているようなのが腹立たしい。なんでダサいって決め付けるんです?そのデザインが普通に好きな人だっているかもしれないのに?
実際私は全然良いと思わないデザインを、リア充の子達は普通に可愛い可愛いって喜んでるのを見るのもよくある話ですし。「ダサピンク」って決め付けてるのも一面的な見方に過ぎず、それを普通に良いと思ってる人も多い可能性を考えた方がいいんじゃないでしょうか。
「女は皆ピンクが好き」という押し付けに怒るならまだしも、「ダサピンク」という言い回しは自分達の感性が絶対的なものであるかのように思い込んで気に入らないデザインを「ダサい」と決め付けている点で、批判している相手と同レベルじゃないのっていう。もっと他の言い回しは出来ないんでしょうか。